紫式部と平安時代
時は、平安時代中期。藤原氏による摂関政治が展開されていました。
この時期から平安時代後期にかけて政治的な不安定さが次第に増加し、貴族社会内での対立や権力争いが顕著になりました。
同時に、地方の武士や豪族の影響力も拡大していました。
一方で、この時代には日本特有の「国風文化」が形成されました。
特に文学分野での発展が著しく、貴族たちが「仮名文字」を使用するようになり、
多くの優れた日本文学作品が誕生しました。
この時代に日本を代表する女流文学者紫式部が誕生し、日本文学の傑作である『源氏物語』がうまれたのです。
紫式部の生い立ち
土佐光起「紫式部図」石山寺所蔵
紫式部の父、藤原為時は、和歌、漢学、漢詩に優れた才能を持っていました。紫式部もその優れた文学の血統を受け継ぎ、当時男性によって主に読まれていた漢文の書物を理解し、また和歌の腕前でも高く評価されました。
紫式部という名前は、彼女の通称であり、本名ではありませんでした。
この名前は、彼女が『源氏物語』の中でヒロインとして登場する"紫の上"と、彼女の父である藤原為時が式部丞(しきぶのじょう)という役職にあったことに由来しています。
当時、藤原氏であることから、彼女は藤式部と呼ばれることが一般的でした。
年表
- 970年前後
- 藤原北家良門流の藤原為時の娘として、紫式部誕生
※諸説あり - 996年
- 越前の守となった父、為時に同行し、越前国へ
- 997年
- 冬のころ、京へ帰る
- 998年
- 藤原宣孝と結婚
- 999年
- 賢子(娘)を出産
- 1001年
- 『源氏物語』を書き始める
- 1006年(1005年)
- 一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)のもとへ出仕
- 1008年ごろ
- 『源氏物語』文献で初めて確認
- 1020年
- このころ紫式部死去
※諸説あり
紫式部相関図
紫式部とゆかりの地
紫式部を語る上で関係の強い地として、京都府宇治市、福井県越前市、滋賀県大津市があげられます。
京都府 宇治市
源氏物語の最後の十帖は、その主な舞台を宇治市に設定しています。
この物語は、光源氏の息子とされる薫君と孫の匂宮の二人の男性、そして大君、中君、浮舟の三人の姫君が関わる、しみじみとした悲恋の物語です。
物語は「橋姫」で始まり、「夢浮橋」で幕を閉じており、紫式部にとっては川霧に包まれる宇治川が、この物語の終章を描く上で欠かせない舞台として重要であったことは間違いありません。
宇治は源氏物語の舞台として、美しい自然環境と歴史的な背景を提供しており、紫式部の創作に深い影響を与えたことがうかがえます。
福井県 越前市
紫式部が生涯でただ一度都を離れて暮らした地、福井県越前市。
越前国の国府の国司に任命された父「藤原為時」とともに、この地で一年余りを過ごしました。
その間に美しい雪山である「越の白山」を近くで眺め、国府周辺の山々から得られる多彩な山の幸や、近くの漁村から届く新鮮な海の幸を楽しんだと言われています。
都では味わえない雄大な自然や文化に触れ、豊かな恵みに満ち溢れた越前国での暮らし、上質な越前和紙との出会いは、才能ある紫式部の感性をさらに豊かにしました。
滋賀県 大津市
平安時代には、貴族たちによる石山詣が盛んで、女流文学者たちもその一環として滋賀県大津市の石山寺を訪れました。紫式部もその中の一人でした。
一条天皇の中宮のリクエストに応えるため、彼女は新しい物語を創作するために石山寺に7日間の参籠を行いました。この参籠中に、びわ湖に映る満月を見て物語の情景が浮かび、「今宵は十五夜なりけり・・・」と物語の一説を書き始めたといわれています。
この作品は、紫式部の石山寺での感銘が生み出したものであり、物語の舞台でも登場するように、大津市が紫式部の創作に深い影響を与えたといえるでしょう。